兼古隆雄ギター教室公式ホームページ


   兼古隆雄の活動のマージナリア

   ♪このページは演奏ど教授活動50年余のこぼれ話です。
    内容は師事した先生や共演した方々などについて書きました。

   1-師事した先生について

   河面一良先生と大塚房喜先生
   小原安正先生
   アルベルト・ポンセ先生
   ホセ・ルイス・コンサレス先生
   ホセ・トマス先生

  ※N.イェペス、R.サンンス・デ・ラ・マーサ先生追加予定です。

   2-共演した方々について・・・・

   F.モレーノ・トロバ

  ※追加予定があります。



1- 師事した先生について…


♪北海道砂川市での河面一良先生と大塚房喜先生

 北海道砂川市に小学4年の時、小樽市から引っ越した。
 小学5年の時、クラス替えがあり、ヴァイオリンを習っている小沢君と親しくなった。
 彼の話しで、習っている先生はギターも教えると知った。
 その頃、家に隣に住む市立病院の医師から買った中古のギターがあった。
 母親の「やって見る?」と言った一言で、レッスンに通うことになった。

 先生のお話では、東洋音楽大学を出て、戦前満州で活躍していたとの事。
 当時は、郵便局に勤めていて、日曜日自宅でレッスンをしていた。
 先生のお住まいは、神社の境内にあり、自分の家からすぐ近くで楽だった。
 先生はギターを上手に弾ける方ではなかったが、知識はあり小倉先生
 の全音版カルカッシギター教則本を初めからやらされた。

 先生の後日談では、すぐ止めるだろう、と思っていたとの事。
 しかし、止めずに通ってくるのと、少しづつ高度になってくる事もあり、一計を案じた。

 駅前に牧田靴店があり、そこの一人息子の裕二さんがいた。
 東京の大学を出て、家業の手伝いをしていた。
 大学時代の友人がギタリストの大塚房喜で、師匠の小原安正の命で、東京から
 札幌に移り、北海道のギター普及のため活動していた。

 当時、日本のエネルギーを担っていた石炭、北海道は主な産地でした。
 炭鉱を産業にしている町が多くあり、収入も結構あり、文化活動が盛んだった。
 各職場でギターサークルがあり、一ヶ月に一度大塚先生は出張レッスンしていた。

 そのついでに、砂川市の裕二さんの所に立ち寄っていた。
 目的は、おいしい食事とお酒だったようです、独身でしたから…
 この靴屋を知っていた河面先生は、大塚先生に習わせることにした。

 中学1年からレッスンを受け始めた、レッスンで中出版蔵作5万円のギターを見た。
 当時の父親の月給を考えて、高級ギターに驚いた。
 また、今では当たり前だが、アポヤンド奏法とかナイロン弦を知った。
 レッスンで持って行ったギターはスチール弦で、駒はウェスタン式だった。

 これではいけないと思い、少ない小遣いを貯め、少し親から援助してもらい、
 地元の伊勢楽器で4千円の古賀ギターを買い、ナイロン弦張った時嬉しかった。

砂川市にて中学生の時.jpg

 古賀ギターを弾く中学時代
 砂川市の吉野にあった公営住宅に住んでいた。
 隣の同級生の田中君が買ったばかりのカメラで取ってくれた。
 夏休みや冬休みなどは一日弾いていた、風鈴も自分で作ったギターが下がっている。

 一ヶ月に一回のレッスンだったが、学ぶ事が楽しく、ギターにのめりこんでいった。
 その結果、いつの間にか楽に弾けるようになったのは当然たった。
 更に、この事が自信を持つ事となり、學業にも良い結果が出るようになった。

 それまでは殆ど、家では学校の勉強らしい事はしないで、外で遊んでいた。
 当然であるが、学業が良くなる訳がなく、自分は勉強が出来ないと思っていた。
 しかし、ギターで曲りなりに注目されるようになり、勉強も出来るのでは考えた。
 始めてみると、少しづつ分かるようになったので面白くなり、続けるようになった。

 その様な意味でも、ギターは掛け替えのない物になり、出会えたこと感謝している。
 更に、ギターに関わったお蔭で、中々経験の出来ない物事や人に出会う事が出来ました。

 今更言うのも憚れるが、曲りなりにもギターに関わっていられるのは、大塚先生のお蔭である事、
 深く感謝している。
 中学の3年間、いくら言ってもレッスン代を受け取らなかった、高校生になった時、親が申し出て、
 ようやく一回3百円受け取る様になった。

 その間、大塚門下の高弟たちが結成していたクレッセンドグループが、年に一回、有料の会を、
 札幌で開催していた、先生の計らいで、出演させて貰った。
 その時は、ギターが安物だったので、裕二さんの5万円の中出ギターを借りて出演した。

 ギターが良くない事を知った母親は、一夏近くのりんご園でアルバイトして、3万円の中出ギターを
 注文、買ってくれた、父親の警察官としての給料では、男4人兄弟の基本的出費で精一杯だった。
 到底ギターへの余裕はなかった、暑さが苦手だった母親、北海道と言え夏は夏、深く感謝している。
 良いギターを手にし、練習に熱が入って行った。
 このギター、今でも手元にあるが、すっかりすり減ったフレットは、それを語っている。

 この母も既に他界し、今は大事な形見になっている。
 母の事で思い出すのは、ギターを初めて一年年位経った頃、今は動機は思い出せないが、母に
 言った事思いだす「ギター止めようかな?」、これに対し母は「もう少し続ければ」と言った。
 この言葉がなかったら、別の人生になっていただろうと思うと、考え深いものがある。

 余談なるが、私が早稲田大学に合格し、東京に出た後、牧田靴店でのレッスンなくなった事聞いた。
 大塚先生は「兼古君がいなくなったので…」と言っていたとか…
 私を目的で来ていたのを知り、更なる感謝の気持ちでいっぱいになりました。
 また、レッスンでは、必ずテクニック練習があった、お蔭で後々技術面で優位に立つ事が出来た。
 先生は晩年、北海道を離れ千葉で過ごし、2012年偉大な功績を残し他界した。
 心よりご冥福を祈ります。


 ♪東京での小原安正先生

 大塚先生の関係で、当然の様に、東京では小原安正先生の教えを受ける事になった。
 北海道にいた頃、小原先生が出版していたギター雑誌「ギタルラ」を夢中で読んでいた。
 また、NHKラジオで、小原先生の出演したギターのシリーズ番組を聞き、憧れだった。
 練習をしっかりして、中野の自宅レッスンに通った。
 当時、中学生だった荘村清志と音階の速弾き比べした事等懐かしく思い出す。

 小原先生には、色々な面で良き指導をして頂いたが、その中で特に感謝していることがある。
 それは、来日したギタリストのレッスンを受けさせてくれたことです。
 先生が戦後、邦人ギタリストとして初めて、スペイン政府給付生として留学した。
 そのため、スペインを中心にしたギタリストとの知遇が豊富だった。
 そして、先生が関与して来日公演したギタリストのレッスンの機会を多く企画してくれた。 

 若い時に、一流の演奏家と接する機会は、今思っても大変貴重な財産となっている。
 例えば、N.イェペス、R.サインス・デ・ラ・マーサです、J.ルイス・ゴンサレス先生は、レッスン
 と言う形でなく、個人的に厚意で色々教えてくれた。
 イェペス先生には公開レッスンも含め、数回に及んだ、レヒーノ先生は一回だったが、ゆっくり練習
 の大切さという貴重な事学んだ。
 ホセ・ルイス先生は、実際に手をとって爪を磨いてくれ、爪磨きの方法を教えてくれた。

イェペス先生の公開レッスン修正.jpg

信濃町にある「野口英世会館」でN.イェペスの公開レッスンが開催された。
バッハのシャコンヌが課題で、イェペスの楽譜で弾いていたが、直接習うと学ぶ事多かった。
演奏会では、10弦ギター初登場の来日だった。


ギタリスタス20世紀公演で客演、小原先生との2重奏修正.jpg

小原先生の高弟がグループで開催していた「ギタリスタス20世紀」で先生とのデュオ。
会場は今はないが青山タワーセンターで、響きのよいホールだった。


ヘスス・ゴンサレス・モイーノの公開レッスンで.jpg

ヘスス・ゴンサレス・モイーノの公開レッスンでのスナップ。
左から兼古、モイーノ先生と同門の田島秀三です。
会場は中野の千光会館で、先生の家から近く、先生はたびたびここを使った。
思い出すのは、J.ウィリアムスの初来日の時、歓迎会がここでも行われた。
21才、黒髪?のジョンが畳の上であぐらをかいて、小原聖子と神田澄江の二重奏、荘村清志のソロの歓迎演奏を聴いた。
今でも記憶があるが、質疑応答の時、質問応え「低音のp指と高音のi、m、aでの同時アポヤンドはあり得ない」と断言していた。


 それに、自分のギター人生で重要な事の一つ、コンクールの経歴を持てたのも、
 先生のお蔭てす。
 当時、第8回から10年程中断していたコンクール、それを再開させました。
 これは、タイミングの良い機会だったのと、先生の良き指導を頂き、努力した結果、
 第一位の栄冠を得る事が出来ました。

 翌年、先生の協力で、東京文化会館小ホールでデビューリサイタルをしました。
 先生の支援もあり、その後は各地からの演奏依頼も増え、どうにかプロギタリスト
 として活動が出来るようになりました。

 その後8年程、演奏と指導で順調にキャリアを積んできました。
 更に視野を広める必要を感じ初め、音楽の本場ヨーロッパへ行く計画を立てました。
 先生からパリのアルベルト・ポンセへの紹介状を頂き、まずパリへ旅立ちました。

 先生の勧めもあり、夏はスペインのサンティアゴ・デ・コムポステラ夏季講習会に出席、
 面識のあったJ.トマスのレッスンを受け、各国からのギタリストと交流しました。

 パリに戻り、ポンセのレッスンをご自宅で受けられる事が出来、光栄でした。
 初対面の時、小原先生の紹介状を見せると、「ああ、オバラ」と懐かしがっていました。

 個人では中々出来ないオーケストラとの共演も、若い時に経験出来たのも感謝です。
 日本ギター連盟が主催した「ギターの祭典」で、「協奏曲の夕べ」が3回ありました。
 幸運にも、その3回ともオーケストラとの共演が出来ました。
 J.ロドリーゴの名曲「アランフェス協奏曲」は初めての共演、勉強になりました。
 M.オアナの「3つのグラフィーク」は2回弾かせて貰いました。
 一回目は三石精一先生、二回目は外山雄三先生の指揮でした。
 同じ曲を異なる指揮者と共演した経験、幸運を感謝しています。
 その後、当時としては個人的に見るとオーケストラとの共演機会が多くありました。
 先生の発案で、若い時からこの様な貴重な経験を出来たので、気後れせず出来た。、

 数えれば切り無いが、様々な形で支援して頂いた先生であった。
 ギターの正しい理解と隆盛を心から願った大切な人でした。
 そのような先生に師事出来た事、心より感謝しています。


♪パリでのアルベルト・ポンセ先生

ポンセ写真モノクロ.jpg

エコール・ノルマルでのポンセ先生

 スペインの講習会から戻り、先生に会う機会が訪れました。
 パリ在住でエコールノルマルで先生に師事されていた日本人ギタリストと知り合いました。
 先生から返事が無いと知ると、自分レッスン時間に来れば、紹介出来ると言われました。

 厚意に感謝し、指定の時間に学校に行きました。
 紹介されると、何か弾くように言われ、バッハのリュート組曲第3番から前奏曲を弾きました。
 聴き終わると、先生は「指の動きがセゴビアに似ている」と言われた事憶えている。
 小原先生からの紹介状を見せたら、懐かしがっていました。

 レッスンの希望は合格した様で、その後ご自宅でのレッスンを約束してくれた。
 パリ8区のパッシーと言う高級住宅街のアパルトマンに帰国寸前までレッスン受けた。
 自宅でのレッスンは毎回、一時間を超す位熱心でした、先生もギターを取り、モデル演奏や
 音色の変化を聴かせてくれた。

 時には、夕食後ではコニャックのグラスを傍に置き、リラックスした雰囲気でした。
 先生に失礼の無い様にと、上着を着て行きましたが、すぐ、「アメリカーノ(上着)を脱ぎなさい」、
 と言われる先生でした。
 バルセローナ出身の先生は、私と同じI.フレータギターを持っていました。
 私のギターも時折触れて、「この時代のフレータは良いね・・・」と言った事思い出す。

 レッスンして頂いた主な曲は、B.ブリッテンのノックターナル、H.ビラ・ロボスの5つの前奏曲だった。
 貴重なアドバイスを沢山頂き、その後の音楽人生の宝となったと確信している。
 この頃、先生はM.オアナの作品のLPを出した頃だった。
 直接オアナからのアドバイスや注文など受けていた様で、レッスンで和音響きに関して、オアナの
 作品の中から和音の例をだし、弾き方で響きが変化する事を教えてくれた。
 その後、和音を弾く時、常にどう響かせるかを考えるようになった。

 帰国記念リサイタルでは、先生のコメントを求めた所、すぐ返事かあり、身に余るメッセージを頂き、
 恐縮と心から感謝を覚えました。


ポンセ先生からの手紙.jpg

ポンセ先生からのリサイタルへのメッセージが書かれた手紙。
スペイン語で書かれている、私の大事な宝物になっている。


 ♪ホセ・ルイス・ゴンサーレス先生

ホセ・ルイスとの写真.bmp

ホセ・ルイス先生の日本での最後のリサイタルの控室で、久しぶりの再会 !

 ホセ・ルイス・ゴンサーレス先生はセゴビア門下の筆頭角の一人で、その美音と
 テクニックを初来日のコンサート披露し、聴衆を感動させた。
 プログラムの中で鮮明に思い出すのは、E.サインス・デ・ラ・マーサの「暁の鐘」です。
 この曲は、今ではトレモロの名曲として良く知られているが、先生が日本初演でした。
 トレモロにのる、少しオリエンタルな旋律が新鮮で、すぐ楽譜を求め練習した。
 先生のレッスンは形式ばった物ではなく、沢山教えて貰い感謝している。

 初来日の時、日本ギター連盟主催による「ギターの祭典」が福岡で3日間開催された。
 その時、先生がゲスト出演、私もコンクールで一位を取った後で、出演依頼があった。
 その時はバッハのシャコンヌを弾き、先生も舞台袖で聴いていました。
 福岡では同じホテルだった、翌日の朝電話が鳴ったので出ると、スペイン語でした。
 先生だと分かり、何ですか?と訊くと、「すぐに私の部屋に来い」と言われた。

 急いで身支度をして、先生の部屋に入ると先生は浴室の中、「何の用ですか?」と訊く。
 先生は、浴室から顔を出し、ベッドの上に置いてある先生のラミレスギターほを指さし、
 「タカオ、私は今顔を洗っている、そのギターで何か弾け」と言った。
 自分はすまして浴室で朝の支度をしている。

 こちらは朝のボケタ気持ちで思いのままに弾きだす。
 先生はカミソリを顔に当てながら、何かと気になる事注文出す。
 これは本当に勉強になった、後で思い出すと大事な事言ってくれていた。

 先生は本当にギターを弾くことが好きで、演奏会後の打ち上げで飲み屋に入り、安物
 のスチール減のギターが壁に゜掛けてあった。
 先生は構わずそのギターを抱えて弾きだした、同席していた小原先生が「爪も傷むし、
 止めた方が良い」と言ってが、気に留めず楽しそうに弾き続けた。
 大好きなビールと、日本で気に入った枝豆が傍にご機嫌な先生だった。

 一緒に音階の速弾き比べをした事があった、私はイェペス先生から教わったamiによる
 3本指で弾いた、先生はmiの交互奏法、私の方が速かった。
 先生は「自分も3本指奏法やってみよう・・・」と言っていた。

 東京に戻っても、宿泊のホテルにギターを持って来いと言われ、何回か伺った。
 その時はね本格的なレッスンになり、F.モレーノ・トロバのソナチネ全楽章やF.ソルの
 練習曲など、時間をかけて見てくれた。
 「楽譜ではそうだが、今のセゴビアはこの様に弾いている」と運指と音を教えてくれた。
 ビラ・ロボスの練習曲第一番を弾いた時、即興で第2ギターをつけたり、楽しかった。

 私の弾く汚い音を聴き、「手を出せ」と言って、サンドペーパーを出し爪を磨きだした。
 仕上げると、「音を出して見ろ」言われ、弾いてみると、ノイズの無い澄んだ音が出た。
 爪の手入れの方法と大事さを教わり、深く感謝している。
 その後、生徒には機会を見て、ホセ・ルイス流を教え伝えている。

 弾き終えると、先生の誘いでホテル隣のレストランで休憩した。
 迷わず、大好きなビールと枝豆を注文、それを口にしながら、色々話してくれ、勉強
 させて頂いた。

 有名なエピソードだが、サンティアゴ・デコムポステラの講習会で、ある生徒がセゴビア 
 に質問した、「先生の様な美しい音を出す方法は?」、すると、セゴビアはホセ・ルイス
 を指さし、「彼に訊きなさい」と言ったか・・・・

 その後、先生は家族の不幸等があり、ギターを止めたと聞き、気になっていた。
 再びギターに戻った話しを聞きホッとした。
 それが、その後の幾度かの来日公演と、多くの日本の生徒が先生の所へ行く結果
 となった。

 写真の最後になった日本公演では、セゴビアを思わせる自然なタッチで紡ぎだす音
 を、今でも鮮明に思い出せる。
 死去したのを聞いた時、心から残念の気持ちと共に感謝の念を覚えた。
 思い出は尽きないが、良い先生出会えた運をありがたく思っている。



♪ホセ・トマス先生 / サンティアゴ・デ・コムポステラ国際夏季講習会

ホセ・トマス.bmp

講習会でのホセ・トマス先生
 ホセ・トマス先生は、ホセ・ルイス先生の後、来日公演した。
 良く知られたセゴビアの講習会、セゴビアの高齢と多忙で、代稽古を務めていた。
 日本公演の演奏は端正で正確で好感が持てた。
 ステージでは、調弦に時間をかけていたのが印象に残っている。

 先生には、その来日の時レッスン受けて、その内容が大変良かったので、渡欧した時講習会へ
 出席する予定にしていた。
 そのレッスンでは、バッハのシャコンヌとロドリゴのアランフェス協奏曲全楽章聴いて貰った。
 バッハはイェペス版で弾いていたので、そんなにアドバイスは多くなかった。
 しかし、アランフェスでは、全楽章に渡り、丁寧なレッスンをして頂いた。
 いわゆるトマス版を教わった、今まで苦労していた部分が随分と楽になった。
 先生の運指や音符の変更を指示して頂き、第一楽章のギターの聴こえにくい所とか、第三楽章
 の弾く難く、聴こえにくいアルペジオの所の改編を教えて頂き、その後の演奏が楽になりました。
 トマス版で弾いているのは、私以外余り見かけないのが、もう少し知って貰いたいと気がしている。

 更に、この来日の際、ギター専門店「ギタルラ社」の青柳社長の企画で、幾つかのホセ・トマス版
 が出版された、これらの楽譜は、勉強中であった私達ギタリストにとり、運指の良さはじめ、当時の
 最先端の版で、大変に有益でした。
 特に、バッハのリュート組曲第一番、カッティングのグリーンスリーブス等は、今でも重宝しています。

 パリでホテルからアパルトマンに移った。
 そろそろ講習会の始まる頃と思った、詳しい情報がなかったので、スペイン大使館へ行った。
 守衛が出た、講習会の情報を尋ねると、バカンス期間で、今職員がいないいないので、分からない、
 と言われた。
 強く言ったら、始まりの日を書いた紙切れを門の間からしぶしぶ渡してくれた。
 パリからサンティアゴ・デ・コムポステラの直行便があり、ルプージェ空港から飛んだ。
 途中、ワインの名産地ボルドー上空からは、緑の葡萄畑が美しかった。

 ほどなくピレネー山脈を飛行機は超え、スペインに入った。
 すると、全く違う光景に戸惑った。
 緑のほとんどない、まるで月面のような土色の世界が広がっていた。
 ナポレオンが言ったと言うセリフ「ピレネーを超えたらアフリカだ」を思い返した。

ほどなくして、飛行機は着陸した、窓から外を見ると、戦闘機が見えた。
 私の席の隣はスペイン人の母親と小さな娘さんの二人だった、「ここは目的地ですか?」と尋ねた。
 返事は「いいえ、ここはサラゴーサで、荷物検査のようだ」との事。
 案の定、全員降ろされ、荷物の検査が行われた。
 当時、スペインはフランコ政権の独裁下、独裁政権の用心深さを肌で経験しました。
 そして、何の説明もなく、機内戻され、目的地に着いた。

 国際空港と聞いていたので、両替所を探したが見当たらなかった。
 丁度、隣の席だった夫人が出迎えの方達と通りかかった、両替所を尋ねると、ないとの返事。
 困っている様子を見て、コインを差し出して、「これで市内へバスで行き、、銀行で替えなさい」と、
 親切に言ってくれた。

 ギターを傍に置いて、空港のバス乗り場で待っていたら、チェロを抱えた男性が近寄ってきた。
 「どこまで行くのか?」と尋ねてきた。
 「講習会に参加するので、市内行のバスを待っている所」と答えた。
 すると、その男性は「私も講習会に出席する、これからタクシーで市内まで行くので、一緒に乗れ」と
 言ってくれた、二つの親切が重なり、運よく市内へたどり着いた。

 彼はカナダ人のチェリストで、名前はターモンと言った、後日、全講習生が参加したカテドラルのミサ
 の時、生徒を代表してバッハの無伴奏のサラバンドを心込めて弾いた。

 既に来ていた日本人達の親切で、安い宿を見つけ落ち着いた。
 翌日、オスタルに行き、講習会の秘書に出席したい旨を申し出た。
 すると、今年のギターは参加希望が大変多くなっているので、確約できないとの返事。
 どうすれば良いかと訊くと、トマス先生に直接訊けば良いとの返事だった。

 部屋番号を教えてもらい、トマス先生に電話した。
 すぐ出られて、自己紹介すると憶えていてくれて、レッスンは出来るとの返事にホットした。

 ギタークラスの初日、トマス先生の前で全員少しづつ弾かされた。
 これは、選抜テストであった、翌日クラスに集まると、トマス先生が20人位の名前を告げた。
 今名を呼ばれた方は、私が午前レッスンする、呼ばれなかった方達は、午後ホセ・ルイス・ロドリゴ
 がマドリーから来て.レッスンをする、と言い残し立ち去った。
 講習生が多くなったので、この結果になったとの事でした。
 幸いに私はトマスクラスに入れた、日本のコンクールで一位を取り、その賞金で来た方は、入れず、
 さっさと帰っていきました。

 講習会では、バッハとトロバをレッスンして頂いた。
 レッスン会場はドーム型をした石造りの部屋で、驚くほどの反響で弾き易かった。
 色々に国から来た若いギタリスト達と知り合いになれ、大変勉強になった。

サンティアゴ・デ・コムポステラ講習会でカフェ.jpg

講習会のレッスンを終え、カフェでくつろぎながら情報交換。
左端が鈴木一郎、正面のジャケットの下赤シャツを着ているのが私。

ホセ・トマス先生の訃報を知った時は大変残念だった。
同時に、先生の厚意に感謝の念をもう一度思い出した。


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2-共演した方達について・・・

♪F.モレーノ・トロバ


トロバ写真.jpg


 名ギタリストのセゴビアが、初めてギターを弾かない作曲家に曲を書かせた。
 その成功があって、その後多くの名曲をギター界に残してくれた。
 そのような歴史的先生に会え、共演出来た事は大変幸運なことでした。

 ヨーロッパから戻り、国内で活動して間もない頃、大先輩のギタリスト中林淳真先生
 から電話があった。
 今回トロバを呼んで、先生の作品をメインにしたコンサートを企画した。
 その中で、ギター協奏曲「セギディリヤ賛歌」のソロを弾けとの内容だった。

 ありがたく引き受けたが、大役に身が引き締まる思いがした。
 中林先生より楽譜が届き練習を始めた。
 曲はイェペスに献呈されていて、テクニック面から見て、イェペス流だった。
 元々イェペス先生の奏法は親しんでいたので、弾き易く感じた。

 1977年の2月19日、寒い夜だったが、トロバが来日するので羽田空港に出迎えた。
 小柄なトロバと大柄な息子さんがゲートから元気に現れた。
 この人がセゴビア等に作品を書いた方だと思うと、感動を覚えた。

 後日、滞在先のホテルに中林先生と訪ね、演奏を聴いて頂いた。
 先生は指揮をしながら聴いていた、終わると「まあ、良いだろう・・・」とのコメント。
 初めてのオケ合わせの時、第3楽章の大変速い音階がある所を指示、ここをやる、
 と言った、今思うと、どうやら私へのテストだったようだった。
 無事に弾き終えると、「良いだろう」て言い、第1楽章から練習を始めた。

 本番は、オケとの経験もあって、暗譜で特別なミスもなく無事弾き終える事が出来、                 
 重積を果たせ、ほっとしたのを憶えている。
 その後、現代ギター誌のインタビューで見に余るお褒めの言葉を頂き嬉しかった。 
 余談になるが、時間も立っているので、もう書いても構わないと思う。

 実は、トロバ先生第1楽章の終わりのコーダの所、テンポを倍にとって指揮をした。
 オーケストラは指揮に従って、叉この曲を良く知っている訳でもない。
 だから、倍遅いテンポでも何事もなく演奏した。
 私の方は、この部分はラスゲアードと言う掻き鳴らしの所、ゆっくりは弾き難かった。
 自作品でも、この様な事があるのに驚いた。
 その時は、指揮を見ていたので合わせられた、経験が救ってくれた一例でした。

 帰る時、羽田空港での見送りの時、トロバは「スペイン来るような時があれば、何時で
 も、訪ねて来なさい」と言って下さった。
 しかし、1982年残念ながら他界され、実現出来なくなりました。
 貴重な勉強をさせて頂いた、トロバと中林先生に深く感謝している。


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