兼古隆雄ギター教室公式サイト マージナリア
1- 師事した先生について…
♪北海道砂川市での河面一良先生と大塚房喜先生
北海道砂川市に小学4年の時、小樽市から引っ越した。
小学5年の時、ヴァイオリンを習っている小沢君と親しくなった。
彼の話しで、習っている先生はギターも教えると知った。
その頃、家に隣に住む市立病院の医師から買った中古のギターがあった。
母親の「やって見る?」と言った一言で、レッスンに通うことになった。
先生は、東洋音楽大学を出て、戦前満州で活躍していたとの事。
郵便局に勤めていて、日曜日自宅でレッスンをしていた。
お住まいは、神社の境内にあり、自分の家からすぐ近くで楽だった。
先生はギターを上手に弾ける方ではなかったが、知識はあり小倉先生
の全音版カルカッシギター教則本を初めからやらされた。
先生の後日談では、すぐ止めるだろう、と思っていたとの事。
しかし、止めずに通ってくるのと、少しづつ高度になってくる事もあり、
一計を案じた。
駅前に牧田靴店があり、そこの一人息子の裕二さんがいた。
東京の大学を出て、家業の手伝いをしていた。
大学時代の友人がギタリストの大塚房喜で、師匠の小原安正の命で、
東京から札幌に移り、北海道のギター普及のため活動していた。
当時、日本のエネルギーを担っていた石炭、北海道は主な産地でした。
炭鉱の町が多くあり、景気も良く、文化活動が盛んだった。
ギターサークルがあり、大塚先生は出張レッスンしていた。
そのついでに、砂川市の裕二さんの所に立ち寄っていた。
目的は、おいしい食事とお酒だったようです、独身でしたから…
この靴屋を知っていた河面先生は、大塚先生に習わせることにした。
中学1年からレッスンを受け始め、その時、中出版蔵作5万円のギターを見た。
警察官だった父親の月給を考え、高級ギターに驚いた。
また、今では当たり前だが、アポヤンド奏法とかナイロン弦を知った。
レッスンで持って行ったギターはスチール弦で、駒はウェスタン式だった。
これではいけないと思い、少ない小遣いを貯め、少し親から援助してもらい、
地元の伊勢楽器で4千円の古賀ギターを買い、ナイロン弦張った時嬉しかった。
![](_src/1389/img20210223145903784302.jpg?v=1697190114811)
古賀ギターを弾く中学時代
砂川市の吉野にあった公営住宅に住んでいた。
隣の同級生の田中君が買ったばかりのカメラで取ってくれた。 夏休みや冬休みなどは一日弾いていた、
風鈴にも自分でギターをかたどったが舌(ぜつ)が下がっている。
月に一回のレッスン、学ぶ事が楽しく、ギターにのめりこんでいった。
その結果、いつの間にか楽に弾けるようになったのは当然たった。
更に、この事が自信となり、學業にも良い結果が出るようになった。
それまでは殆ど、家では学校の勉強らしい事はしないで、外で遊んでいた。
当然、学業が良くなる訳がなく、自分は勉強が出来ないと思っていた。
しかし、ギターで注目されるようになり、勉強も出来るのでは考えた。
始めると、少しづつ分かるようになって面白くなり、続けるようになった。
思えば、ギターは掛け替えのない物になり、出会えたこと感謝している。
更に、ギターが縁で、普通経験が難しい物事や人に出会う事も出来ました。
今更言うのも憚れるが、曲りなりにもギターに関わっていられるのは、大塚先生のお蔭である事、深く感謝している。
中学の3年間、いくら言ってもレッスン代を受け取らなかった、高校生になった時、親が申し出て、ようやく一回3百円受け取る様になった。
その間、大塚門下の高弟たちが結成していたクレッセンドグループが、年に一回、有料の会を、札幌で開催していた、先生の計らいで、出演させて貰った。
その時は、古賀ギターの安物だったので、裕二さんの5万円の中出ギターを借りて出演した。
ギターが良くない事を知った母親は、一夏近くのりんご園でアルバイトして、3万円の中出ギターを注文、買ってくれた。
父親の警察官としての給料では、男4人兄弟の基本的出費で精一杯だった。
到底ギターへの余裕はなかった、暑さが苦手だった母親、北海道と言え夏は暑い、深く感謝している、母親が戻る前、夕食のご飯を槇ストーブで炊くのが自分の役目となった、母親から上手く炊けていると褒められた記憶が懐かしい。
良いギターを手にし、練習に熱が入って行った。
ギターは今手元にあるが、すり減ったフレットは、それを語っている。
この母も既に他界し、今は大事な形見になっている。
母の事で思い出すのは、ギターを初めて一年年位経った頃、今は動機は思い出せないが、母に言った事思いだす「ギター止めようかな?」、これに対し母は「もう少し続ければ」との返事。
この言葉がなかったら、別の人生になっていただろうと思うと、考え深いものがある。
余談なるが、私が早稲田大学に合格し、東京に出た後、牧田靴店でのレッスンなくなった事聞いた。
大塚先生は「兼古君がいなくなったので…」と言っていたとか…
私を目的で来ていたのを知り、更なる感謝の気持ちでいっぱいになりました。
また、レッスンでは、必ずテクニック練習があった、お蔭で後々技術面で優位に立つ事が出来た。
先生は晩年、北海道を離れ千葉で過ごし、2012年偉大な功績を残し他界した。
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♪東京での小原安正先生
大塚先生の関係で、当然の様に、東京では小原安正先生の教えを受ける事になった。
北海道にいた頃、小原先生が出版していたギター雑誌「ギタルラ」を夢中で読んでいた。
また、NHKラジオで、小原先生の出演したギターのシリーズ番組を聞き、憧れだった。
練習をしっかりして、中野の自宅レッスンに通った。
中学生だった荘村清志と音階の速弾き比べした事等懐かしく思い出す。
小原先生には、色々な面で良き指導をして頂いたが、その中で特に感謝していることがある。
それは、来日したギタリストのレッスンを受けさせてくれたことです。
先生が戦後、邦人ギタリストとして初めて、スペイン政府給付生として留学した。
そのため、スペインを中心にしたギタリストとの知遇が豊富だった。
そして、先生が関与して来日公演したギタリストのレッスンの機会を多く企画してくれた。
若い時に、一流の演奏家と接する機会は、今思っても大変貴重な財産となっている。
例えば、N.イェペス、R.サインス・デ・ラ・マーサです、J.ルイス・ゴンサレス先生はレッスンと言う形でなく、個人的に厚意で色々教えてくれた。
イェペス先生には公開レッスンも含め、数回に及んだ、レヒーノ先生は一回だったが、ゆっくり練習の大切さという貴重な事学んだ。
ホセ・ルイス先生は、実際に手をとって爪を磨いてくれ、爪磨きの方法を教えてくれた。
![](_src/1391/ph.7.png?v=1697190114811)
信濃町にある「野口英世会館」でN.イェペスの公開レッスンが開催された。
受講生としてバッハのシャコンヌをイェペス版で弾いた、直接習うと学ぶ事多かった。
10弦ギター初登場の来日だった。
レッスンが終わり、聴衆の要請で2曲演奏した。
指ならしでF.ソルの練習曲(俗称「月光」)弾き、次にS.バカリッセのパスピエを素晴らしい技術で弾き終え、大きな拍手に包まれた。
![](_src/1393/ph.3.png?v=1697190114811)
小原先生の高弟の「ギタリスタス20世紀」の会で客演、先生とのデュオ。
会場は今はないが青山タワーセンターで、響きのよいホールだった。
![](_src/1395/ph.9.png?v=1697190114811)
ヘスス・ゴンサレス・モイーノの公開レッスンでのスナップ。
左から兼古、モイーノ先生と同門の田島秀三です。
会場は中野の千光会館(美容室の2階)で、先生の家から近く、先生はたびたびここを使った。
思い出すのは、J.ウィリアムスの初来日の時、歓迎会がここでも行われた。
21才、黒髪?のジョンが畳の上であぐらをかいて、小原聖子と神田澄江の二重奏、荘村清志のソロの歓迎演奏を聴いた。
モイーノ先生は、今でも記憶があるが、質疑応答の時、質問応え「低音のp指と高音のi、m、aでの同時アポヤンドはあり得ない」と断言していた。
それに、自分のギター人生で重要な事の一つ、コンクールの経歴を持てたのも、先生のお蔭てす。
当時、第8回から10年程中断していたコンクール、それを再開させました。
これは、タイミングの良い機会だったのと、先生の良き指導を頂き、努力した結果、第一位の栄冠を得る事が出来ました。
翌年、先生の協力で、東京文化会館(小)でデビューリサイタルをしました。
先生の支援もあり、その後は各地からの演奏依頼も増え、どうにかプロギタリストとして活動が出来るようになりました。
その後8年程、演奏と指導で順調にキャリアを積んできました。
更に視野を広める必要を感じ、本場ヨーロッパへ行く計画を立てました。
先生からパリのアルベルト・ポンセへの紹介状を頂き、まずパリへ旅立ちました。
先生の勧めもあり、夏はスペインのサンティアゴ・デ・コムポステラ夏季講習会に出席、面識のあったJ.トマスのレッスンを受け、各国かのギタリストと交流しました。
パリに戻り、ポンセのレッスンをご自宅で受けられる事が出来、光栄でした。
初対面の時、小原先生の紹介状を見せると、「ああ、オバラ」と懐かしがっていました。
個人では難しいオーケストラとの共演も、若い時に経験出来たのも感謝です。
日本ギター連盟が主催した「ギターの祭典」で、「協奏曲の夕べ」が3回ありました。
幸運にも、その3回ともオーケストラとの共演が出来ました。
J.ロドリーゴの名曲「アランフェス協奏曲」は初めての共演、勉強になりました。
M.オアナの「3つのグラフィーク」は2回弾かせて貰いました。
一回目は三石精一先生、二回目は外山雄三先生の指揮でした。
同じ曲を異なる指揮者と共演した経験、幸運を感謝しています。
その後、当時として個人的にはオーケストラとの共演機会が多くありました。
先生の発案で、若い時からこの様な貴重な経験を出来たので、気後れせず出来た。
数えれば切り無いが、様々な形で支援して頂いた先生であった。
ギターの正しい理解と隆盛を心から願ったギター界の貴重な存在でした。
そのような先生に師事出来た事、幸運と共に心より感謝しています。
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♪パリでのアルベルト・ポンセ先生
![](_src/1423/img20210223181828579472.jpg?v=1697190114811)
エコール・ノルマルでのポンセ先生
スペインの講習会から戻り、先生に会う機会が訪れました。
パリ在住でエコールノルマルで先生に師事されていた日本人ギタリストと知り合いました。
先生から返事が無いと知ると、自分レッスン時間に来れば、紹介出来ると言われました。
厚意に感謝し、指定の時間に学校に行きました。
紹介されると、何か弾くように言われ、バッハのリュート組曲第3番から前奏曲を弾きました。
聴き終わると、先生は「指の動きがセゴビアに似ている」と言われた事憶えている。
小原先生からの紹介状を見せたら、懐かしがっていました。
レッスンの希望は合格した様で、その後ご自宅でのレッスンを約束してくれた。
パリ8区のパッシーと言う高級住宅街のアパルトマンに帰国寸前までレッスン受けた。
自宅でのレッスンは毎回、一時間を超す位熱心でした、先生もギターを取り、モデル演奏や音色の変化を聴かせてくれた。
時には、夕食後ではコニャックのグラスを傍に置き、リラックスした雰囲気でした。
先生に失礼の無い様にと、上着を着て行きましたが、すぐ、「アメリカーノ(上着)を脱ぎなさい」、と言われる先生でした。
バルセローナ出身の先生は、私と同じI.フレータギターを持っていました。
私のギターも時折触れて、「この時代のフレータは良いね・・・」と言った事思い出す。
レッスンして頂いた主な曲は、B.ブリッテンのノックターナル、H.ビラ・ロボスの5つの前奏曲だった。
貴重なアドバイスを沢山頂き、その後の音楽人生の宝となったと確信している。
この頃、先生はM.オアナの作品のLPを出した頃だった。
直接オアナからのアドバイスや注文など受けていた様で、レッスンで和音響きに関して、オアナの作品の中から和音の例をだし、弾き方で響きが変化する事を教えてくれた。
その後、和音を弾く時、常にどう響かせるかを考えるようになった。
帰国記念リサイタルでは、先生のコメントを求めた所、すぐ返事かあり、身に余るメッセージを頂き、 恐縮と心からの感謝を覚えました。
![](_src/1425/img20210223183349768091.jpg?v=1697190114811)
ポンセ先生からのリサイタルへのメッセージが書かれた手紙。
スペイン語で書かれている、私の大事な宝物になっている。
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♪ホセ・ルイス・ゴンサーレス先生
![](_src/1427/img20210223183619511580.png?v=1697190114811)
ホセ・ルイス先生の日本での最後のリサイタルの控室で、久しぶりの再会!
ホセ・ルイス・ゴンサーレス先生はセゴビア門下の筆頭角の一人で、その美音とテクニックを初来日のコンサートで披露、聴衆を感動させた。
プログラムの中で鮮明に思い出すのは、E.サインス・デ・ラ・マーサの「暁の鐘」です。
この曲は、今ではトレモロの名曲として良く知られているが、先生が日本初演でした。
トレモロにのる、少しオリエンタルな旋律が新鮮で、すぐ楽譜を求め練習した。
先生のレッスンは形式ばった物ではなく、沢山教えて貰い感謝している。
初来日の時、日本ギター連盟主催による「ギターの祭典」が福岡で3日間開催された。
その時、先生がゲスト出演、私もコンクールで一位を取った後で、出演依頼があった。
その時は私はバッハのシャコンヌを弾き、先生も舞台袖で聴いていました。
福岡では同じホテルだった、翌日の朝電話が鳴ったので出ると、スペイン語でした。
先生だと分かり、何ですか?と訊くと、「すぐに私の部屋に来い」と言われた。
急いで身支度をして、先生の部屋に入ると先生は浴室の中、「何の用ですか?」と訊く。
先生は、浴室から顔を出し、ベッドの上に置いてある先生のラミレスギターほを指さし、「タカオ、私は今顔を洗っている、そのギターで何か弾け」との命令。
自分はすまして浴室で朝の支度をしている。
こちらは朝のボケタ気持ちで思いのままに弾きだす。
先生はカミソリを顔に当てながら、何かと気になると注文を出した。
これは本当に勉強になった、後で思い出すと大事な事言ってくれていた。
先生は本当に気さくにギターを弾くことが好きで、演奏会後の打ち上げで飲み屋に入り、安物のスチール弦のギターが壁に掛けてあった。
先生は構わずそのギターを抱えて弾きだした、同席していた小原先生が「爪も傷むし、止めた方が良い」と言ってが、気に留めず楽しそうに弾き続けた。
大好きなビールと、日本で気に入った枝豆が傍にご機嫌な先生だった。
一緒に音階の速弾き比べをした事があった、私はイェペス先生から教わったamiによる3本指で弾いた、先生はmiの交互奏法、私の方が速かった。
先生は「自分も3本指奏法やってみよう・・・」と言っていた。
東京に戻っても、宿泊のホテルにギターを持って来いと言われ、何回か伺った。
その時は本格的なレッスンになり、F.モレーノ・トロバのソナチネ全楽章やF.ソルの練習曲など、時間をかけて見てくれた。
「楽譜ではそうだが、今のセゴビアはこの様に弾いている」と運指と音を教えてくれた。
ビラ・ロボスの練習曲第一番を弾いた時、即興で第2ギターをつけたり、楽しかった。
私の弾く汚い音を聴き、「手を出せ」と言って、サンドペーパーを出し爪を磨きだした。
仕上げると、「音を出して見ろ」言われ、弾いてみると、ノイズの無い澄んだ音が出た。
爪の手入れの方法と大事さを教わり、深く感謝している。
その後、生徒には機会を見て、ホセ・ルイス流を教え伝えている。
弾き終えると、先生の誘いでホテル隣のレストランで休憩した。
迷わず、大好きなビールと枝豆を注文、それを口にしながら、色々話してくれ、勉強させて頂いた。
有名なエピソードだが、サンティアゴ・デコムポステラの講習会で、ある生徒がセゴビアに質問した、「先生の様な美しい音を出す方法は?」、すると、セゴビアはホセ・ルイスを指さし、「彼に訊きなさい」と言ったか・・・・
その後、先生は家族の不幸等があり、ギターを止めたと聞き、気になっていた。
再びギターに戻った事を聞きホッとした。
それが、その後の幾度かの来日公演と、多くの日本の生徒が先生の所へ行く結果となった。
写真の最後になった日本公演では、セゴビアを思わせる自然なタッチで紡ぎだす音を、今でも鮮明に思い出せる。
死去したのを聞いた時、心から残念の気持ちと共に感謝の念を覚えた。
思い出は尽きないが、良い先生出会えた運をありがたく思っている。
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♪ホセ・トマス先生/サンティアゴ・デ・コムポステラ国際夏季講習会など
講習会でのホセ・トマス先生
ホセ・トマス先生は、ホセ・ルイス先生の後、来日公演した。
良く知られたセゴビアの講習会、セゴビアの高齢と多忙で、代稽古を務めていた。
日本公演の演奏は端正で正確な音楽に好感が持てた。
ステージでは、調弦に時間をかけていたのが印象に残っている。
先生には、その来日の時レッスン受けて、その内容が大変良かったので、渡欧した時講習会へ出席する予定にしていた。
日本でのレッスンでは、バッハのシャコンヌとロドリゴのアランフェス協奏曲全楽章聴いて貰った。
バッハはイェペス版で弾いていたので、そんなにアドバイスは多くなかった。
しかし、アランフェスでは、全楽章に渡り、丁寧なレッスンをして頂いた。
いわゆるトマス版を教わった、今まで苦労していた部分が随分と楽になった。
先生の運指や音符の変更を指示して頂き、第一楽章のギターの聴こえにくい所とか、第三楽章の弾く難く、聴こえにくいアルペジオの所の改編を教えて頂き、その後の演奏が楽になりました。
トマス版で弾いているのは、私以外余り見かけないのが、もう少し知って貰いたいと気がしている。
更に、この来日の際、ギター専門店「ギタルラ社」の青柳社長の企画で、幾つかのホセ・トマス版が出版された、これらの楽譜は、勉強中であった私達ギタリストにとり、運指の良さはじめ、当時の 最先端の版で、大変に有益でした。
特に、バッハのリュート組曲第一番、カッティングのグリーンスリーブス等は、今でも重宝しています。
パリでホテルからアパルトマンに移った。
そろそろ講習会の始まる頃と思った、詳しい情報がなかったので、スペイン大使館へ行った。
守衛が出た、講習会の情報を尋ねると、バカンス期間で、今職員がいないいないので、分からない、と言われた。
強く言ったら、始まりの日を書いた紙切れを門の間からしぶしぶ渡してくれた。
パリからサンティアゴ・デ・コムポステラの直行便があり、ルプージェ空港から飛んだ。
途中、ワインの名産地ボルドー上空からは、緑の葡萄畑が美しかった。
ほどなくピレネー山脈を飛行機は超え、スペインに入った。
すると、全く違う光景に戸惑った。
緑のほとんどない、まるで月面のような土色の世界が広がっていた。
ナポレオンが言ったと言うセリフ「ピレネーを超えたらアフリカだ」を思い返した。
ほどなくして、飛行機は着陸した、窓から外を見ると、戦闘機が見えた。
私の席の隣はスペイン人の母親と小さな娘さんの二人だった、「ここは目的地ですか?」と尋ねた。
返事は「いいえ、ここはサラゴーサで、荷物検査のようだ」との事。
案の定、全員降ろされ、荷物の検査が行われた。
当時、スペインはフランコ政権の独裁下、独裁政権の用心深さを肌で経験しました。
そして、何の説明もなく、機内に戻され、目的地に着いた。
国際空港と聞いていたので、両替所を探したが見当たらなかった。
丁度、隣の席だった夫人が出迎えの方達と通りかかった、両替所を尋ねると、ないとの返事。
困っている様子を見て、コインを差し出して、「これで市内へバスで行き、、銀行で替えなさい」と、 親切に言ってくれた。
ギターを傍に置いて、空港のバス乗り場で待っていたら、チェロを抱えた男性が近寄ってきた。
「どこまで行くのか?」と尋ねてきた。
「講習会に参加するので、市内行のバスを待っている所」と答えた。
すると、その男性は「私も講習会に出席する、これからタクシーで市内まで行くので、一緒に乗れ」と言ってくれた、二つの親切が重なり、運よく市内へたどり着いた。
彼はカナダ人のチェリストで、名前はターモンと言った、後日、全講習生が参加したカテドラルのミサの時、生徒を代表してバッハの無伴奏のサラバンドを心込めて弾いた。
既に来ていた日本人達の親切で、安い宿を見つけ落ち着いた。
翌日、オスタルに行き、講習会の秘書に出席したい旨を申し出た。
すると、今年のギターは参加希望が大変多くなっているので、確約できないとの返事。
どうすれば良いかと訊くと、トマス先生に直接訊けば良いとの返事だった。
部屋番号を教えてもらい、トマス先生に電話した。
すぐ出られて、自己紹介すると憶えていてくれて、レッスンは出来るとの返事にホットした。
ギタークラスの初日、トマス先生の前で全員少しづつ弾かされた。
これは、選抜テストであった、翌日クラスに集まると、トマス先生が20人位の名前を告げた。
今名を呼ばれた方は、私が午前レッスンする、呼ばれなかった方達は、午後ホセ・ルイス・ロドリゴがマドリーから来て.レッスンをする、と言い残し立ち去った。
講習生が多くなったので、この結果になったとの事でした。
幸いに私はトマスクラスに入れた、日本のコンクールで一位を取り、その賞金で来た方がいたが名前呼ばれず、講習会の参加を断念し、帰国してしまいました。
講習会では、バッハとトロバをレッスンして頂いた。
レッスン会場はオスタルの2階でドーム型をした石造りの部屋で、驚くほどの反響で弾き易かった。
色々に国から来た若いギタリスト達と知り合いになれ、大変勉強になった。
講習会のレッスンを終え、カフェでくつろぎながら情報交換。
左端が鈴木一郎、正面のジャケットの下赤シャツを着ているのが私。
ホセ・トマス先生の訃報を知った時は大変残念だった。
同時に、先生の厚意に感謝の念をもう一度思い出した。
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![](_src/1431/ph.5.png?v=1697190114811)
講習会でのホセ・トマス先生
ホセ・トマス先生は、ホセ・ルイス先生の後、来日公演した。
良く知られたセゴビアの講習会、セゴビアの高齢と多忙で、代稽古を務めていた。
日本公演の演奏は端正で正確な音楽に好感が持てた。
ステージでは、調弦に時間をかけていたのが印象に残っている。
先生には、その来日の時レッスン受けて、その内容が大変良かったので、渡欧した時講習会へ出席する予定にしていた。
日本でのレッスンでは、バッハのシャコンヌとロドリゴのアランフェス協奏曲全楽章聴いて貰った。
バッハはイェペス版で弾いていたので、そんなにアドバイスは多くなかった。
しかし、アランフェスでは、全楽章に渡り、丁寧なレッスンをして頂いた。
いわゆるトマス版を教わった、今まで苦労していた部分が随分と楽になった。
先生の運指や音符の変更を指示して頂き、第一楽章のギターの聴こえにくい所とか、第三楽章の弾く難く、聴こえにくいアルペジオの所の改編を教えて頂き、その後の演奏が楽になりました。
トマス版で弾いているのは、私以外余り見かけないのが、もう少し知って貰いたいと気がしている。
更に、この来日の際、ギター専門店「ギタルラ社」の青柳社長の企画で、幾つかのホセ・トマス版が出版された、これらの楽譜は、勉強中であった私達ギタリストにとり、運指の良さはじめ、当時の 最先端の版で、大変に有益でした。
特に、バッハのリュート組曲第一番、カッティングのグリーンスリーブス等は、今でも重宝しています。
パリでホテルからアパルトマンに移った。
そろそろ講習会の始まる頃と思った、詳しい情報がなかったので、スペイン大使館へ行った。
守衛が出た、講習会の情報を尋ねると、バカンス期間で、今職員がいないいないので、分からない、と言われた。
強く言ったら、始まりの日を書いた紙切れを門の間からしぶしぶ渡してくれた。
パリからサンティアゴ・デ・コムポステラの直行便があり、ルプージェ空港から飛んだ。
途中、ワインの名産地ボルドー上空からは、緑の葡萄畑が美しかった。
ほどなくピレネー山脈を飛行機は超え、スペインに入った。
すると、全く違う光景に戸惑った。
緑のほとんどない、まるで月面のような土色の世界が広がっていた。
ナポレオンが言ったと言うセリフ「ピレネーを超えたらアフリカだ」を思い返した。
ほどなくして、飛行機は着陸した、窓から外を見ると、戦闘機が見えた。
私の席の隣はスペイン人の母親と小さな娘さんの二人だった、「ここは目的地ですか?」と尋ねた。
返事は「いいえ、ここはサラゴーサで、荷物検査のようだ」との事。
案の定、全員降ろされ、荷物の検査が行われた。
当時、スペインはフランコ政権の独裁下、独裁政権の用心深さを肌で経験しました。
そして、何の説明もなく、機内に戻され、目的地に着いた。
国際空港と聞いていたので、両替所を探したが見当たらなかった。
丁度、隣の席だった夫人が出迎えの方達と通りかかった、両替所を尋ねると、ないとの返事。
困っている様子を見て、コインを差し出して、「これで市内へバスで行き、、銀行で替えなさい」と、 親切に言ってくれた。
ギターを傍に置いて、空港のバス乗り場で待っていたら、チェロを抱えた男性が近寄ってきた。
「どこまで行くのか?」と尋ねてきた。
「講習会に参加するので、市内行のバスを待っている所」と答えた。
すると、その男性は「私も講習会に出席する、これからタクシーで市内まで行くので、一緒に乗れ」と言ってくれた、二つの親切が重なり、運よく市内へたどり着いた。
彼はカナダ人のチェリストで、名前はターモンと言った、後日、全講習生が参加したカテドラルのミサの時、生徒を代表してバッハの無伴奏のサラバンドを心込めて弾いた。
既に来ていた日本人達の親切で、安い宿を見つけ落ち着いた。
翌日、オスタルに行き、講習会の秘書に出席したい旨を申し出た。
すると、今年のギターは参加希望が大変多くなっているので、確約できないとの返事。
どうすれば良いかと訊くと、トマス先生に直接訊けば良いとの返事だった。
部屋番号を教えてもらい、トマス先生に電話した。
すぐ出られて、自己紹介すると憶えていてくれて、レッスンは出来るとの返事にホットした。
ギタークラスの初日、トマス先生の前で全員少しづつ弾かされた。
これは、選抜テストであった、翌日クラスに集まると、トマス先生が20人位の名前を告げた。
今名を呼ばれた方は、私が午前レッスンする、呼ばれなかった方達は、午後ホセ・ルイス・ロドリゴがマドリーから来て.レッスンをする、と言い残し立ち去った。
講習生が多くなったので、この結果になったとの事でした。
幸いに私はトマスクラスに入れた、日本のコンクールで一位を取り、その賞金で来た方がいたが名前呼ばれず、講習会の参加を断念し、帰国してしまいました。
講習会では、バッハとトロバをレッスンして頂いた。
レッスン会場はオスタルの2階でドーム型をした石造りの部屋で、驚くほどの反響で弾き易かった。
色々に国から来た若いギタリスト達と知り合いになれ、大変勉強になった。
![](_src/1433/img20210202202039987688.jpg?v=1697190114811)
講習会のレッスンを終え、カフェでくつろぎながら情報交換。
左端が鈴木一郎、正面のジャケットの下赤シャツを着ているのが私。
ホセ・トマス先生の訃報を知った時は大変残念だった。
同時に、先生の厚意に感謝の念をもう一度思い出した。
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♪ナルシソ・イェペス先生 / 初のマエストロのレッスンだった
![](_src/1435/img20210223194117393712.jpg?v=1697190114811)
イェペス先生は全て来日の時のレッスンだった。
主なところでは、以下に書いたギタルラ社での初レッスン。
この時はF.モレーノ・トロバのソナチネを受けた。
この曲はコンクールで一位になった時弾いている。
次は千駄ヶ谷の野口英夫記念館での公開レッスンの時でした。
バッハのシャコンヌを先生の版で受け、得るもの多かったですね。
その後は、滞在先のホテルでバッハのリュート組曲とミランのパバーヌでした。
パバーヌは先生の詳しい版が出たので受けてみました。
第9回ギターコンクール(現東京国際ギターコンクール)で、強敵の渡辺範彦氏との雌雄決着をつけ、審査員の満票で第一位を頂きました、ちなみに渡辺氏も満票の第二位、翌年の`67年、東京文化会館で満員の聴衆を迎えてのデビューリサイタルしました。
まもなくして、東京新聞の主催でN.イェペス先生が第二回の来日公演をしました。
この機会にと、若き巨匠と懇意だった師匠の小原安正先生がレッスンを企画した。
渋谷に日本初のギター専門として営業していた「ギタルラ社」(現在は目白)の二階でレッスンが行われた、私の他に三人が受けました。
レッスン前、私達を前に先生がギターを持ちいきなり弾きだしました。
譜面にすると次の様なものです。
![](_src/1437/img20210223194947809138.png?v=1697190114811)
弾き終え、先生はこの場合、左親指を移動させると困難になる、覚えておくようにと言われた。
ギター界では一般的ではなかった「ポジションの拡大」と言う技術でした。
これは、20世紀のチェロの巨匠パブロ・カザールスが始めたことで知られています。
素晴らしいJ.S.バッハの「無伴奏チェロ組曲」の演奏、それまで困難でした。
しかし、カザルスが若いころから研究を重ね、弾ける技術作りました。
その中の一つです、もう一つで知られているので、右腕の使い方です。
それまで、右腕は本を脇に挟んで弾いていました。
自由がなく、ミスが多いものでした。
それを一変、右腕を大きく体から離す様にして、この難曲を弾きこなしました。
現在では、音楽大学の学生でも普通に弾いています。
定説と言うものは、そのまま信じて従うものではない事の一例です。
それに近い事をギターでイェペスはしたと思います。
音階で大変早い部分では従来のmとiの交互では弾きません。
ami の三本の回転でピアノ並みに音階を弾けるようにしました。
これはトレモロ奏法では従来しています、これを音階でも利用したのです。
これも、パリで過ごした青年期、ピアニストのギーゼキングにレッスン受けようとしました。
音階を弾きなさいと言われ、弾いた処、そんな遅いのでは駄目と断られました。
困ったイェペスが色々工夫して考えついたものでした。
もう一度と頼み、練習したamiで弾きました、これてレッスンが受けられました。
右の指使いではもう一つあります。
pとiでの交互奏法です、これは17・8世紀のリュートで音階を速く弾く奏法でした。
フィゲタ奏法と呼ばれ、速いパッセージでは普通に使われていました。
試してみれば気が付きますが、二本の神経はリンクしていないので動き易いのです。
出来るだけ弾き難いaを避けるのも多いです。
音質と音色を揃える工夫の一つとして、i の連続奏法があります。
これは、レッスンで言われましたが、注意が必要です。
指で弾かない事と言われました。
アライレ奏法(アル・アイレ奏法と言われていますが、スペイン人はそう言いません)を使い、i指は伸ばし固くして動かさず、腕で弾くのです。
これで弦に当たる角度が一定になり、音色が揃う。
pのタッチも工夫しています、特に低音弦では独特の響きがしますね。
これは、p指を力抜いて伸ばし、腕の重みで弾きます。
このタッチでチェロの様な音色が可能になり、ビラ・ロボスの前奏曲第一番が例ですね。
この方法は後年、アランホェス協奏曲の第二楽章のテーマの旋律で使用していました。
左では、フォームです、指は物を掴むため中心に向かうのが原則です。
これでは、指が広がりませんので、少し斜めのフォームにします。
バイオリンとかチェロ等では当たり前で、これで弦の押さえが改善されます。
ハイポジション(12フレット以上)では一番先の指を小指ではなく、3の薬指にします。
フォームが安定してビリつきが減ります、更に二本の指で押さえる事も勧めます。
この弾き方はチェロでは当たり前です。
指使いの考えとしては、セゴビアの時代までは、一般的に開放弦を避ける傾向でした。
これはバイオリン等ではそうです、それはフレットがないので、解放弦の音と押さえた音では、音色の違いが出ます。
しかし、ギターはフレット楽器ですので、そんなに違いは出ません。
私も、18才頃イェペス版が出始めたので買いました。
その時の新鮮な驚き今でも覚えています。
全くそれまで神様の運指として信奉していたセゴビアのとは違っています。
しかし、慣れていくと、より楽に弾けて、音が繋がる喜びがありました。
それが、生徒さん達から私の楽譜使うと楽に弾けると言われる理由です。
全ては書き切れないほど多くのものがありますね。
先生の信条は出来るだけ楽に弾いて、音楽の表現に重点を置くです。
あと少し触れます、練習の心構えですが、例えば練習で五回弾くとします。
この時は、毎回その日始めて弾くように心がける様にする。
ある小節が弾き難いとき、まずそれを丁寧に練習、次に前後の三小節に拡大すること。
イェペス先生、その演奏聴いた方は、指が速く動く事に気が付いていると思います。
先生は所謂楽器のテクニックについても次の様に言っていました。
テクニックだけでは音楽ではない、例えれば舌の様なものと思いなさい。
言いたい、表現したい事、それを伝えるには舌がないと出来ない。
テクニックは音楽を表現するには欠かせないもの。
ここで、話題が少しずれますが、海外では、特に南米に多いですが、びっくりする位指が動く方がいます、しかし、音楽がないので世間に認められません。
あくまでも音楽が主役で、それを表現する道具がテクニックです。
でも、道具が良くないと良いものは作れませんね。
好きな曲だけ弾いていても上達はしません。
例えば野球でホームランを打ちたくて、バットだけを振り回しても駄目です。
基本的な体力、走る力、全身のバランスの良い筋肉つくりなど必要ですね。
楽器も同じで、特にギターでは音階・アルベジョ・スラー等の基本が欠かせません。
これらは日々の訓練でしか身に付きません。
水泳や自転車と同じで、一旦身に付いたら何時でも助けてくれます。
このバランスを考えて練習と工夫をしなさいと言うアドバイスです。
当時は、ギター界のセゴビアに次ぐ若きマエストロとして世界を回っていました。
20歳でロドリーゴの「アランホェス協奏曲」を、やはりスペイン人で指揮者として頭角中のアタウルホ・アルヘンタ(その後、車中で女優と心中、その才能は世界から惜しまれた)との共演を得ての衝撃的な世界デビュー、フランス映画の名匠ルネ・クレマンの名画「禁じられた遊び」を世界初のギター一本で支え、イェペスの名と共に、その演奏と選曲は世界中の人の心をとらえ、ギターの枠を超え広く知られました。
先生の語った事ですが、この映画に音楽を付けるため、映画を30回見て各シーンに合う音楽を考えたとの事です。
このテーマ音楽も原作者がA.ルビーラと分かり、スペイン民謡からお別れしました。
研究熱心で頭の良い先生と感じました。
教本を書きたい意志も、病気になられ、それも叶わなく残念でした。
また思い付いた事がありましたら追加します。
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2-共演した方達について・・・
♪F.モレーノ・トロバ
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自作品を指揮するトロバ先生
名ギタリストのセゴビアが、初めてギターを弾かない作曲家に曲を書かせた。
その成功があって、その後多くの名曲をギター界に残してくれた。
そのような歴史的先生に会え、共演出来た事は大変幸運なことでした。
ヨーロッパから戻り、国内で活動して間もない頃、大先輩のギタリスト中林淳真先生から電話があった。
今回トロバを呼んで、先生の作品をメインにしたコンサートを企画した。
その中で、ギター協奏曲「セギディリヤ賛歌」のソロを弾けとの内容だった。
ありがたく引き受けたが、大役に身が引き締まる思いがした。
中林先生より楽譜が届き練習を始めた。
曲はイェペスに献呈されていて、テクニック面から見て、イェペス流だった。
元々イェペス先生の奏法は親しんでいたので、弾き易く感じた。
1977年の2月19日、寒い夜だったが、トロバの来日で羽田空港に出迎えた。
小柄なトロバと付添の大柄な息子さんがゲートから元気に現れた。
この人がセゴビア等に作品を書いた方だと思うと、感動を覚えた。
後日、滞在先のホテルに中林先生と訪ね、先生の部屋で演奏を聴いて頂いた。
先生は指揮をしながら聴いていた、終わると「まあ、良いだろう・・・」とのコメント。
初めてのオケ合わせの時、第3楽章の大変速い音階がある所を指示、初めにここをやる、と言った、今思うと、どうやら私へのテストだったようだった。
無事に弾き終えると、「良いだろう」て言い、第1楽章から練習を始めた。
本番は、オケとの経験もあって、暗譜で特別なミスもなく無事弾き終える事が出来、重積を果たせ、ほっとしたのを憶えている。
その後、現代ギター誌のインタビューで見に余るお褒めの言葉を頂き嬉しかった。
余談になるが、時間も立っているので、もう書いても構わないと思う。
実は、トロバ先生第1楽章のコーダで、テンポを倍遅く指揮をした。
オーケストラは指揮に従い、叉この曲を良く知っている訳でもない。
だから、倍遅いテンポでも何事もないように演奏した。
私は暗譜しているくらい覚えている音楽、更にこの部分はラスゲアードと言う掻き鳴らしの所、ゆっくりは弾き難かった。
指揮に従って弾いていたので合わせられた、経験が救ってくれた一例でした。
自作品でも、この様な事があるのに驚いた、本人もうっかりしたのだと思う。
羽田空港での見送りの時、トロバは「スペイン来るような時があれば、何時で
も、訪ねて来なさい」と言って下さった。
しかし、1982年残念ながら他界され、実現出来なくなりました。
貴重な勉強と経験をさせて頂いた、トロバと中林先生に深く感謝している。
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